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東京地方裁判所 昭和38年(合わ)414号 判決 1964年6月26日

主文

被告人を懲役二年に処する。

但し、本裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、東京都千代田区丸の内所在の電子工業機器等の貿易を営む国際電子工業株式会社の取締役で、昭和三二年九月自動車普通運転免許を得て、通勤には自動車を運転利用しているものであるが、昭和三八年一〇月二二日午後六時四〇分頃前記会社から帰宅するため自家用乗用自動車(五な二一六八)を運転して同都目黒区駒場町八六三番地先京王帝都電鉄株式会社井の頭線駒場第一号踏切(長さ約九・八米、巾約二・七五米)北口に差しかかつたが、折柄同線駒場駅を発車した電車が通過するため同踏切に設置してある庶断機が下りていたため北側停止線で一旦停車し、右電車の通過を待つて右踏切内に進入し、南側下り軌道上において反対方向から大学生本多隆司が友人吉田富士男を助手席に同乗させて運転進行してきた自家用普通乗用自動車(五ね一七八五)と鉢合せとなつたため同所で一時停止したが、右本多らはさきに北側から同踏切を通過した自動車に順位を譲つたのであるから今度は同人らに踏切通過の優先順位があると主張して被告人にその運転にかかる自動車の後退を求め、被告人において「このままだと電車がきて死んでしまうではないか」というに対し、右吉田において「じや死ねばいいじやないか」といつてしばらく口論し、意地を張り合つて互に譲り合おうとしなかつたところ、前記駒場駅駅務係河原芳博が駈けつけて被告人にその運転する自動車の後退を促したので、被告人はようやく後退運転して同踏切北側の停止線の外側までさがつたが、同所で停止し、被告人の自動車が後退するのに追従し、当然踏切北側へ通り抜けられるものと信じて前進してきた右本多の運転する自動車の出口を塞ぎ、同人をして上り軌道上に停車するのを余儀なからしめ、次いで右河原、吉田らにさらに後退を求められたのであるが、かかる場合被告人としては右本多の運転する自動車に電車が衝突する等の事故が発生しないようにするため、同人の運転する自動車が踏切を通り抜けてくるのに障害とならないように自己の運転する自動車を同所よりさらに後退さすべき法律上の作為義務があり、かつ被告人の運転する自動車の後方は前記駒場駅前の広場で、同広場西側のバス路線図の立看板までは同車より約四米余、また左後方に停車していた自動車までは約四米余もあり、その他何らの障害物はないので車巾約一・六米の本多の運転する自動車を通過させるには被告人の運転する自動車をわずか後退させれば足り、その後退はきわめて容易であつたのに拘らず、前記の如く吉田から死んだらいいなどといわれたことに忿懣をいだき自車のドアに鍵をおろし、素知らぬふりをし、電車接近を約三〇秒前に報知する警報機が鳴り出し、次いで庶断機がおりた後も右河原らの求めを無視し続け、前記のような事故が発生することを容認しながら敢て後退の措置をとらず、よつて同六時四三分頃折柄進行してきた上り吉祥寺駅発渋谷駅行四輛連結第二五四電車を右本多の運転する自動車に衝突させ、もつて電車の往来の危険を生ぜしめたものである。

(証拠の標目)<省略>

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、

被告人には本件踏切北側停止線外側からさらにその運転する自動車を後退さすべき法律上の作為義務はない。即ち、道路交通法第三三条第一項本文によれば車輛等は、踏切を通過しようとするときは、踏切の直前で停止し、かつ、安全であることを確認した後でなければ進行してはならないと規定されている。被告人は右規定に従つて本件踏切南側に本多の運転する自動車が停車しており、その外側を自車が安全に通過できる余裕が充分あることを確認のうえ、踏切内に進入したものであるところ、本多の場合は被告人の自動車が踏切北側の停止線直前に位置していたため踏切を安全に通過して北側に通り抜けることのできない状況であつたのに、右規定に従わず、安全を確認しないで、踏切内に進入したものであるから明らかに右規定に違反する運転をしたものである。道路交通法第三三条の趣旨からするとき被告人運転の自動車に踏切を通過する優先順位が存したのである。従つて本多が被告人にさきがけて踏切を通過することは法律に違反する許されなかつた行為である。のみならず、進んで自車を後退させて被告人の車を通過させるべき義務があつたというべきである。被告人は身の危険を感じて踏切北側停止線までその自動車を後退させるや、本多はこれを奇貨として前進し、被告人に対してさらに後退を要求し、右の法律違反の行為を強行しようとしたものである。かかる不正は肯認することはできず、被告人にさらに後退を求め正しい行為をしている者に不正行為による侵害を受忍してその運転する自動車を後退させるべき義務を、しかもこれを法律の義務として認めることは法律秩序全体の精神に照らして絶対に許容さるべきでない。不正行為者である本多にその運転する自動車を後退させるべき義務を尽させ、不正を除去することが十分可能で、そうすることにより事故の発生が避けられ、十分に公共の利益を保護できる事情があるときこれを放置して正の行為に法律上の義務を課すことは許されない旨主張するが、被告人が本件当時自動車を運転して本件踏切北側より踏切内に進入したとき踏切南側に停車していた本多の運転する自動車が弁護人主張の如き地点に位置していたことは証拠上必ずしも明らかでない。当裁判所の検証調書中の本多隆司および吉田富士男の各指示記載によると、右本多の自動車はむしろ右踏切南側の停止線上にあつたことが明らかであり、証人小木友策の当公判廷における供述も右指示に副うものである。従つて被告人運転の自動車が本件踏切通過の際優先順位にあつたとの弁護人の主張は既にこの点において失当である。のみならず自動車の踏切通過の際の優先順位が道路交通法第三三条本文の規定の趣旨から決定されるべきものとも解することはできない。

次に、被告人が本件踏切北側停止線外側よりさらにその運転にかかる自動車を後退させなかつた点につき案ずるに、本件のとき本多の本件踏切通過行為が前記道路交通法の規定に違反した不正行為であると断ずることのできないこと前述のとおりであり、従つて被告人にその運転する自動車の後退を求めるのは後退者に相手方の不正行為による侵害を受忍して自動車を後退させるべき義務がありと認めるものではない。判示の如き経緯により本件踏切の北側上り軌道上に本多の運転する自動車が位置したため右自動車に電車が衝突する等の事故の発生する虞あるにあたり被告人が判示駅務係河原芳博らよりさらにその運転にかかる自動車の後退措置をとるように真剣に求められ本多において専ら被告人の運転する自動車の後退を期待しているのを認識しながら自己の自動車をわずか後退させることにより容易に右事故の発生を防止できるのに拘らず敢えて右要求に応ぜず、右踏切北側停止線外側に停止を続けるが如きは実に公の秩序を無視するもので、秩序の維持を任務とする法律の精神に牴触することが明らかであるからかような場合においては被告人において自己の自動車を後退させて右本多の自動車に出口を与えて、本件踏切北側へ通り抜けることができるようにし、もつて電車の往来の危険の発生を防止することはその法律の義務に属すると認めるのが相当である。

なお本件の場合においても被告人に対しその運転にかかる自動車を後退させることを期待することが所詮見込みなしとみるや速かに自己の運転する自動車を本件踏切の上り軌道上より後退させる措置をとることが必ずしも不可能でなかつたことは前顕証拠により認めるに難くないが、本多に右事情の存することは被告人の前記法律上の作為義務を否定すべき理由にはならない。

よつて弁護人の前記主張はすべて理由がないものといわねばならない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は、刑法第一二五条第一項に該当するのでその所定刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処し、本件電車の往来の危険の発生については判示本多の側にも原因の存することは否み難く、長時間に亘つて電車の運休をもたらす等その結果は重大であるが、幸い電車の乗客、乗務員の傷害は皆無であつた点等諸般の情状を考慮し、同法第二五条を適用し、本裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予し、訴訟費用につき刑事訴訟法第一八一条第一項本文を適用して全部被告人に負担させることとする。

よつて主文のとおり判決する。(裁判長裁判官浅野豊秀 裁判官丸山喜左エ門 田崎文夫)

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